話は変わるが、退職して国民健康保険に入ると、面倒なことがいくつかある。
1つは、年に1度は「とくとく検診(特定検診)」を受けなければならないとされて
いる。かかりつけ医のいる場合は「とくとく検診」を実施している病院で、かかりつ
け医のいない場合は住んでいる区の住民集団検診会場で「とくとく検診」を受診
しなければならない。これを怠ると(国民健康保険に入れないごとく)きついお達し
が来る。
もう1つは、「とくとく検診」受診の前に、喫煙や飲酒習慣などを自己申告する事
になっており、申告内容いかんでは問診の際に細かくしつこい指導を受ける。
早川四郎の場合は、1本あたりニコチン1mgの煙草で、1日あたり10数本だか
ら、たいした量ではないと思っているが、担当医によっては「痰が出ないか?肺に
影は出ていないか?」と執拗に尋問され、閉口する。早川は何回か「とくとく検診」
を受診しているうちに、煙草の本数と吸ってきた年数を過少申告すれば、とがめら
れない事が分かった。飲酒も同じである。
早川は、40歳過ぎて運転免許を取ったが、妻や娘達が車内での喫煙を嫌い、
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それ以来車内では禁煙している。だから、現役の頃、役員と同じ車に乗って道内
に出張する事が何度かあったが、何時間吸わなくとも我慢できた。
取引先の商社マンの中に、唐沢さんというヘビースモーカーがいた。側に寄る
だけで全身から煙草の煙の臭いが漂い、人差し指と薬指の間が黄色く染まって
いる。彼は明らかにニコチン中毒と思われた。ある時、ひょんな事からその唐沢さ
んと酒を飲む機会があり話していると、彼が1番困るのは、海外出張だと言う。
「とうぜん飛行機の中では禁煙でしょう?」
と早川が尋ねると、
「40年くらい前までは良かったよ。最後部の座席6席くらいが喫煙席になってい
てね、煙草吸いが入れ替わり立ち代りやってきてね、友達にもなって、退屈しない
ですんだからね・・・今はどこの国の飛行機も全席禁煙で、乗っている間はまるで
拷問にあっているみたいなもんさ」
と彼は言う。
「目的地に着いたらそこの飛行場に喫煙所はあるの?」
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「入管手続きが済んだら、喫煙所へまっしぐらさ」
「近くにあるの?」
「ないない。飛行場にもよるが、喫煙所はたいてい人通りの少ない、遠く不便なと
ころにあるよ。1番遠い待合室の端っこに階段があり上って行くと2階に小さい喫煙
所があったり、喫煙所の案内表示沿って行くと途中から冷房が効いていない廊下が
あって、喫煙所のドアを開けるとそこは屋外の炎天下だったりさ・・・」
「それじゃあ行く時期や国によっては暑いですね?」
「インドのムンバイの喫煙所は外気温が40度近くもあって、汗だくさ。そこは遠く
てとても暑いから二度と行く気にもならなかったよ。後は忍の一事さ」
「そうなんですか?」
「一流ホテルの客室はほとんど禁煙で、止む無く冷蔵庫の缶ジュースの中身を
捨てて、それを灰皿の代わりにして、風呂場の換気口の下で吸っていたよ」
「涙ぐましいですね」
「ははは、それも楽しい思い出となるのさ・・・そうそう煙草といえば、中国を10
年ほど前に訪問した時は、夜の歓迎会の円卓に煙草が置いてあり、乾杯の後吸
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うようにすすめられたよ。よほど価格の高い煙草だったとみえ、同席の中国の人
達も1本ずつ取っていたよ。中国で煙草は遠来のお客様をおもてなしする重要な
手段だったんだよ。それ以来、再訪する時には日本の煙草をお土産に持って行っ
たものさ・・・しかし、最近では中国もアメリカに次ぐ禁煙国になったというから、そ
んな習慣もなくなったかも知れないな?」
「そうですか?」
「同じ頃、イギリスでも面白い経験をしたよ」
「何です?」
「レストランで食事をした後、黒人のボーイがうすい木の箱を持って来て、何か
と思ったら、高そうな葉巻が10本ほど並んでいるんだ。食後に一本吸えという事
さ。どうやらこれもサービスで、煙草は歓待の証しだったんだね・・・」
「今や、飛行機も、船も、汽車も、バスもみんな禁煙ですよね?」
「国内でも、ほとんどの会社や公共施設や病院などが禁煙だから、これを持って
歩くのさ・・・」
唐沢さんは背広のポケットから大きな携帯用灰皿を取り出して見せる。
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