早川の所属する東ブロックのラジオ体操の会場は、町内会でいちばん大きい
南公園で、野球のグランドも併設しており、そこがラジオ体操の場となる。当然参
加者も150人前後といちばん多い。この会場の責任者は東ブロック事務局長の
山田東4分会長である。
彼は、開始15分前には自転車に出席カードと判子とスタンプ台を入れた袋を積
んで会場入りし、公園に隣接する親戚の物置に入り、ラジオのスイッチを入れる。
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公園と親戚の敷地の境界の金網に設置したスピーカーから会場の公園に音声が
流れる仕組みである。それから、早く来た子供らのために、出席カードと判子とス
タンプ台をお立ち台に並べる。子供達は自分の好きな図柄のハンコを選び、スタ
ンプ台でしっかりインクをつけ、出席カードに力一杯押す。
同じブロックに所属する早川と高木ら町内会役員は10分前に会場に入り、ゴミ
拾いをする。前夜の花火の燃え殻があちこちに散らばっている。翌朝、花火の燃
え殻を片付けに来る人は、小さい孫と遊んだ爺さんくらいのものである。
ラジオ体操が始まると、早川は黙って立っているわけには行かないから、50何
年かぶりにラジオ体操を始めるが、子供の頃いやいや参加していたせいで、未だ
に間違ってばかりである。体操が終わると、いったん片付けた出席カードと判子と
スタンプ台をお立ち台に並べる。後から来た子供達が思い思いのスタンプを押す
と、毎日の朝が終わる。
早川は、子供達に配っている「ラジオ体操出席カード」を見ると、印刷は「かんぽ」
であった。自分の小学校の時は印刷が「郵便局」だったと思い出した。
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実は、ラジオ体操の始まりは生命保険と密接なつながりがあったのである。
逓信省が国営の簡易保険事業を始めたのが、1916(大正5)年の事だった。1
923(大正12)年、逓信省簡易保険局の猪熊監督課長が海外の保険事業を視察
に派遣された時、米国のメトロポリタン生命保険会社のラジオ体操を知り、折りしも
昭和天皇即位祝賀もあり、紆余曲折を経て、現在のラジオ体操の原型が出来た。
1927(昭和2)年9月、簡易保険局を中心に日本放送協会、文部省等の協力
の下に旧ラジオ体操を制定、1928(昭和4)年2月からラジオ体操が全国放送と
なった。1931(昭和6)年には「ラジオ体操の歌」(小川孝敏作詞、堀内敬三作曲)
が発表された。
1945(昭和20)年の終戦、8月15日には旧ラジオ体操を中止、8月23日に再
開したものの、(作者注:国民皆兵や軍国主義につながらぬか、というGHQの危
惧も考慮し)1946(昭和21)年4月には旧ラジオ体操を中止し、新ラジオ体操(第
1〜3)を制定し、放送を開始した。しかし、新ラジオ体操はやや難しく普及しなかっ
たため1947(昭和22)年に中止し、1951(昭和26)年5月に現在のラジオ体操
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第1を制定し、放送を開始した。翌、1952(昭和27)年には現在のラジオ体操第
2を制定し放送を開始した。1956(昭和31)年には現在の「ラジオ体操の歌」(藤
浦洸作詞、藤山一郎作曲)が発表された。
(HP「ラジオ体操の歴史ーかんぽ生命」)
さて、早起きに弱い早川は大変である。眠気を振り切り、まず煙草を1本吸い、
毎朝習慣となっているウンチを出して、歯を磨き、髭をそり、顔を洗う。したがって
毎朝5時半に目覚ましをかけなきゃ間に合わない。
困るのは天気予報が雨の時である。子供の時は「こんなに降っているのだから、
今日は中止に違いない、だから行かなくても良い」と勝手に欠席したが、町内会役
員になるとそういうわけ訳には行かない。必ず出席しなければならないのである。
雨の降りようで、参加している役員で「このまま決行するか、中止にするか」協議す
るからである。しかし、この場合も、他の案件同様、反対意見の誰かに気を使って
いるのか、責任を取りたくないのか、なかなか結論が出ない。
人間がいやいややっていると碌なことを連想しない。早川がいやいやラジオ体
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