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である。酒が弱い高木分会長はすでに姿を消していた。
  3人が連れ立って玄関を出ると、久井理事が、
  「どこかに故郷の 香をのせて〜」
  と、歌い出した。

  「井沢八郎の『ああ上野駅』ですね、この前の日曜日、TVでやっていましたね」
  早川がそのTVを思い出す。


  先日、民放TV「なつかしの戦後歌謡」の中で、井沢八郎の「ああ上野
駅」を紹介
していた。

  アナウンサーの語りは、「昭和39年のヒット曲と言えば井沢八郎さんの『ああ

上野駅』です。昭和30年代から40年代の戦後の高度成長を支えた集団就職の
若者達、その彼らの心を代弁したこの歌は、彼らに愛され、歌われ、瞬く間に大ヒ

ット曲となりました」とあり、

  どこかに故郷の 香をのせて
  入る列車の なつかしさ
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  上野は俺らの 心の駅だ

  くじけちゃならない 人生が

  あの日ここから はじまった 
                      (「ああ上野駅」作詞:関口義明 作曲:新井英一)
と、若き日の井沢八郎のはりのある歌が流れた。画面には白黒で中卒の若者達
が集団就職列車に乗り込む景色が写されていた。

  作曲家の関口義明は、上野駅で見かけた集団就職の少年達を題材に詩を書

き、農家向け雑誌「家の光」の懸賞に応募して1位入選した。これを見た東芝レコ
ードの近藤英男により、レコード化され、当時ほぼ無名の井沢八郎に歌わせた。

青森出身という井沢の人生とも重なり、「心の応援歌」として多くの人々に勇気と
感動を与えた。

 
  集団就職には2つの側面があった。1つは戦後の教育改革で、昭和23(1948)
年から中学校が義務教育となった。このため、中学卒業後すぐに社会に出る若者

が生まれたのであった。郡部は農林漁業の第一次産業中心の社会で、自営業が
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多く、次男・三男には就職の場がなく、かといって高校に進学したくとも経済的に出
来ない環境にあった。

  もう1つは、戦後の経済成長で、都市部の町工場や商店は高校卒を採用したく
とも大企業や官公庁に取られ、来てがなかったことである。
  こうした事情を背景に、東北地方や九州地方から4大工業地帯を目指して、若

者達は集団就職列車に乗り、都会に向かった。中小企業の経営者は労働力・人

材不足解決のため、中学卒は喉から手が出るほど欲しい存在で、彼らは「金の
卵」とも呼ばれた。(フリー百科事典『ウィキペディア』「ああ上野駅」より)

  集団就職は、昭和30(1955)年から昭和50(1975)年頃まで続いた。彼らが
いたからこそ、日本の戦後の高度経済成長が実現したと言って過言ではない。集
団就職の初期からすでに55年経過したが、自ら会社を興したり自営業に転じた
人はごく僅かで、彼らのほとんどが退職し、年金生活者となっている。

  「ちょっと、ちょっと、久井理事、カラオケ屋で『ああ上野駅』を聞かせてよ」
  と小宮がリクエストする。
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  (2人とも今日はカラオケ屋に行くほどの小遣いは持ち合わせていないはずだ。
飲み物だけなら自分ひとりで払える)と踏んだ早川は、
  「今日はカラオケはやめて、久井理事の金の卵の話を聞きましょう」
  と提案する。
  久井理事も自分の懐を考えたのか、
  「そうするか」
  と妥協する。
  「それじゃあ、」
  と早川は、町内会館の向かいにあるハンバーグ屋ドッキリ・ピンキーに案内し、
2人の飲み物を聞く。そして久井理事と自分に生ビール、小宮にはコーヒーを注
文する。
  「久井理事、今でも上野駅を思い出しますか?」
  と水を向ける。
  「上野駅?私は大阪駅です」
  「大阪駅?」 小宮理事が聞き返す。
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第1話 ああ上野駅  その5 ★★★★★






















           

         






































































































































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