数少ない常連さんだけにまり子は軽くあしらうわけにはいかない。
「やはりそうですか。女性に歳の話は何ですが、その歳でよく独立したものですね」
「そうですか?今の女の子は会社や人間関係が気に入らなけりゃすぐに辞めてし
まいますよ」
「まり子さんも他人に言えない何かがあったんでしょうね?私もやりたい事があっ
たんですが、飯を食うためにやむなくサラリーマンをやっていました。辞める勇気も
なく結局定年まで勤めてしまいました」
武田の爺ちゃんはそう言って1人で感心する。
「お客さんは何をしたかったんですか?」
まり子が微笑み返す。
「私はですね、笑われるかもしれませんが、小説家になりたかったんですよ。毎日
家に帰ってから小説を書き溜めて、東京の出版社に送っていたんです。ですが才能
が無かったようで芽が出なかったんです。
そんな姿に神さんも愛想をつかして家を出て行きました。その時、思い切って会社
を辞めて執筆活動に入ればどうだったか?芽が出たのか、やっぱり駄目だったのか、
今でも分りません」
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武田の爺ちゃんは照れくさそうに白髪混じりの前髪をかき上げる。
「そうですか?夢があったんですね」
まり子が慰める。
「いや、つい余計な話をしてしまって・・・・・・つまらない話を聞いてくれてありがとう、
また明日来ます」
武田の爺ちゃんは他人に言えない恥ずかしい事をついに言ってしまったかのよう
に、肩を落としてゆっくり帰っていった。
「サン、おはよう。ところでまり子さん、武田の爺ちゃん帰った?」
そこへ隣の仏壇屋蓮華堂の半井嬢が入って来た。まるで武田の爺ちゃんが帰る
のを待ち構えていたようなタイミングである。サンが半井嬢に駆け寄ってくる。
「美樹ちゃんたら、武田の爺ちゃんなんて、あの人が武田かどうか分らないわよ」
まり子は慌てて訂正する。
「だって、まり子さんが最初に武田の爺ちゃんて言ったのよ。皺だらけの顔は細長く
めん玉が大きく、足が短いから武田鉄矢そっくりだって」
「そう言ったけど武田さんかどうか分らないわよ。今度来たら本当の名前を聞いてお
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くわ」
そう言いながらまり子は爺ちゃんの顔を思い出してつい顔がほころぶ。
「あの爺ちゃんはまり子さんに気があるんではないですか?」
若い半井嬢が言いにくい事を平然と言う。
「美樹ちゃん、何を言うの?」
まり子は一瞬ほほを染めながら半井嬢の顔を睨む。
「だってさ、あの爺ちゃんは開店以来毎日のように来ているんでしょ?まり子さんに
気があるに決まっているわよ。金森支配人も『まり子さんはまだ色気があるから悪い
虫がつかなきゃいいが』と心配しているわよ」
美樹はまり子の反応をうかがう。まり子はうろたえながらも言い訳を言う。
「あの人はねえ、とっくに離婚してマンションに独り暮らしだから話し相手がいないよ
うなの、それで毎日来るんだって・・・・・・私が思い切って脱サラして店を開いたと言っ
たら、うらやましがっていたわ」
「どうして?」
「爺ちゃんは本当は小説家になりたかったんだって・・・・・・だけど勇気が無くて脱
サラ出来なかったそうよ」
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「ふうん、そうなのか。ところでまり子さん、あなたはどうして立派な会社を辞めてし
まったの?」
「それは・・・・・・」
不意打ちをくらってまり子は一瞬たじろぐ。
しかし、まり子は先ほどの武田の爺ちゃんの告白を聞いて妙に心がうずいていた。
そして自分も今まで隠していた事を誰かに話したくなっていた。その相手がうんと年
下の美樹だったからなおさらである。
「それはねぇ、こんな事があったからなの・・・・・・ある時、春北商会の山本課長から
フランス料理をご馳走すると誘われて同僚の女の子と出かけたの、そうするとそこに
白川常務がいたの・・・・・・山本課長によると、この会食の話を聞いた山本課長と同
期の白川常務が『たまには会社の女の子の話も聞きたい』と言って割り込んで来た
らしいの。こんな事はよくある話だから私も気にもしないでご馳走をいただいたわ。と
ころが・・・・・・」
「ところが?」
サンの喉をなでていた半井嬢が手を止め、まり子の最後の言葉を繰り返す。
「翌日、課長が『どうだった?』と聞くのよ。もちろん美味しかったと答えたわ。そうす
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