「いよいよ北海道にも新型インフルエンザがやってきましたね」
朝日のあたる家がオープンしてからほぼ2ヵ月経った6月29日の朝、まり子が常
連の爺さんに話しかける。
「ほんとうに早いね、昔のスペイン風邪よりずっと早いよ、きっと」
開店当時からほとんど毎日やってくる70歳代の爺さんはまるで自宅のようにすっ
かりくつろいでいる。
「スペイン風邪って?何か聞いた事あるような気がするけど・・・・・・」
まり子が爺さんに尋ねる。
「大正の初め世界中に大流行したインフルエンザの事さ。第一次世界大戦の最中
で、日本へもうつって40万人も死んだらしいよ。そもそもはアメリカの北西部で出現
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したんだが、アメリカ軍の出兵とともにヨーロッパに渡り、世界中に広がったんだ。死
者は2,000万人とも3,000万人とも言われ第一次世界大戦の戦死者より多かっ
たそうだ」と爺さんはなかなか物知りである。
「なんでスペイン風邪なの?」
まり子がさらに尋ねる。
「スペインの王室での被害状況が大々的に報じられたからいつのまにかスペイン
風邪と呼ばれるようになったのさ、もちろんその頃は今で言うインフルエンザとは誰
も分らなかったが」
「そうなんですか」
まり子は爺さんの解説に感心する。
「スペイン風邪の時には人の往来も時間のかかる陸路か航路だけさ、今やそれに
飛行機が加わり、しかも大量に人間を世界中に運んでいるからね。伝染するのもあっ
と言う間さ・・・・・・リーマンショックの後は新型インフルエンザか?何かこのところ悪
い事が続くね。おごり高ぶった人間に対する神の警告かもしれないな、ははは」
一見芸術家らしくも見えるおかっぱ頭の爺さんが愉快そうに笑う。
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2009年4月にメキシコでの流行が確認された新型インフルエンザは瞬く間に世
界中に伝播していった。日本でも5月16日神戸市の高校生が国内初の感染者と確
認され、6月11日には道内でも感染者が出た。6月11日午後9時半現在、国内で
確認された感染者の数は544人になっていた。6月12日、世界保健機構(WHO)は
世界的大流行(パンデミック)を宣言し、各国に対策を求めていた。
日本国内では、集団感染によって幼稚園や小中高学校の学級・学年閉鎖が相次
いだり、休校が続いた。また、修学旅行などの学校行事や人が集まる民間の各種イ
ベントも中止を余儀なくされた。ようやく軌道に乗りかけた猫じゃら小路キャンドルナ
イトもやむなく中止せざるを得ず、神田は中止の告知に振り回された。
「最近、スーパーや地下鉄やバスでもマスクをしている人が増えましたよ。お客さ
んは毎日出て歩いて大丈夫ですか?」
まり子は一回り以上年上の老人を気遣う。
「うん、今回の新型インフルエンザは若い人がかかっているようだね。私ら戦前生
まれの世代は元来頑丈に出来ているから大丈夫さ。それに過去のインフルエンザ
の免疫が残っているのかもしれないね」
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老人は笑って答える。
その爺さんは歳には似合わないおかっぱ頭をしていて、しわくちゃの細長い顔に
大きな眼玉がぎょろりとついている。
中肉中背で下半身が短く、何となく武田鉄矢にも似ている。まり子は心の中で密
かに武田の爺ちゃんと呼んでいた。
武田の爺さんは退職者らしいが、まり子の白いエプロン姿が気に入ったらしく、毎
日10時頃になると朝日の当たる家にやって来てコーヒーを飲んで行く。
生活には困っていないと見え縦縞の洒落たゴルフシャツを着ている。どうも近くの
高層マンションにお住まいのようである。
「話は変わるが、まり子さんはどう見ても素人ですよね?」
子猫のサンをあやしているまり子を見て、武田の爺ちゃんが話題を変える。爺ちゃ
んは毎日通っているうちにいつの間にか店主の名前を覚えたらしい。
「どうして?」
まり子が思いがけない質問にうろたえる。
「いかにも初々しいからさ、前から気になっていたんだが・・・・・・」
「今流行の脱サラですよ」
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