年金の支給はまだ先で、故郷函館の母親の病院代もまだ当分仕送りしなけりゃな
らないが、割り増し退職金で何とか食いつなぐ事は出来そうだ。幸い、2人の娘達も
学校を終えそれぞれ就職していた。
(そうは言っても、木枯先輩の猫じゃらサービスは何をするところか、俺が何をする
のか、もう一度しっかり聞いてみなけりゃならんな)
ここまで考えてから、神田大助はようやく頭を仕事モードに切り替えた。
1週間後の1月20日の午後、神田は木枯先輩に電話して再び猫じゃらサービス
へ向った。神田は休みの日のいつもの格好、太目のジーンズに赤いジャンパーを着
ている。地下鉄東西線大通駅で降りて、角井デパートの脇から地上に出て南へ向う。
「久し振りに蕎麦でも食うか」
約束の2時までにはまだ1時間以上ある。神田は歩くうちに、猫じゃら小路2丁目
の蕎麦屋「川福」を思い出した。「川福」は明治25年創業の老舗の蕎麦屋で、昭和
45年に神田が札幌へ出た頃、猫じゃら小路を散策して入った店である。
行ってみると、「川福」は鉄筋ビルに立て直したのか、構えは昔より立派で、広い
間口は堂々としていた。店の前の1間半もあろうかという明るいメニューの陳列棚
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を爺ちゃん婆ちゃんが覗き込んでいる。
その後に1人の中学生の女の子がいて、財布の中と値段を見比べている。
女の子はセーラー服に格子の入った茶色いバーバリーのマフラーを着用し、寒い
のかマフラーを口元まで上げている。
青いスカートの下の細い素足にお決まりの白いソックスをはいている。
「どうかしたかい?」
そんな中学生の女の子の様子が気になった神田が後から声をかける。
振り向いた女の子は神田の赤いジャンパー姿に一瞬ぎょっとする。しかし、悪人と
は思えない顔を見て安心したのか、
「いえ、ちょっとお金が足りないかなぁと思って」と返事する。
その女の子は見た目にはちょっときかなそうな顔立ちをしてたが、素直な目をして
いた。
(そこいらに良くいる、学校も行かないで遊んでいる中学生とは違うか)
瞬時にそう思った神田は、
「いくら、足りないんだ?」と知り合いのような口を利く。
「100円」
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「分った、上げるよ」
神田はそういいながら、小銭入れから100円玉を取り出し、女の子の手のひらに
載せる。
「でも」 女の子はちょっと身を引く。
「100円くらいどうって事ないよ、温かい物を腹いっぱい食べな」
と、神田は女の子に言い残し、さっさと左手の入口から中へ入った。何か言いか
けた女の子の目線が神田を追う。
「川福」の店内は家族連れが多く、4人がけの椅子席が並んでいる。神田は壁際
の空いた席に陣取り、ざる蕎麦を注文する。この頃夜の席が続き、体重がどんどん
増えている神田には大盛りは厳禁である。
蕎麦が出てくるのを待っていると、壁に「長い間のご愛顧ありがとうございました。
当店も今月をもって閉店させていただきます」と書いた貼り紙が目に入った。
「えっ、閉店か?寂しいな」
つい神田は独り言を呟く。今になって、結婚早々、妻の美代子と蕎麦を食べに来
た記憶が蘇る。
神田は一時感傷に浸っていたが、蕎麦が出てくると食べる事に集中する。大食い
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の早食いではないが、神田はあっと言う間に蕎麦を平らげ、蕎麦猪口に蕎麦湯を差
してずずっと飲み干す。
「相変わらず美味しかったな、これで食い納めか、ごちそうさん」
と神田は従業員へ声をかけ、妻楊枝を取ってくわえ、立ち上がる。
木枯先輩に会う時間まで後15分、「ちょうど良い時間だ」とばかりに、店を出た神
田は右手の1丁目に向う。向かいの刃物の専門店「宮分」は店が古びていたが未
だ健在だった。
いつの間にか、先ほどの女の子が神田の後をつけていた。神田が1丁目の仏壇
屋蓮華堂に入るのを確かめたその女の子はうなづいて「川福」に戻って行った。
神田が仏壇屋 蓮華堂の2階、猫じゃらサービスに入ると木枯先輩はいつものよ
うに立川蓮華堂社長の机に座っていた。
「先輩、今2丁目の川福へ行って来ましたが、あの店今月いっぱいで閉店するそ
うですね」
と神田は挨拶もそこそこに話しかける。木枯先輩はお正月も終ったのか、先週の
着物姿とはうって変わって洋装である。白い縦縞が入った黒いスーツに真っ赤な
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