前年の不況を引きずり、早川がようやく北斗トレーディングに就職出来たのは昭
和42年だった。その後2年と9ヵ月いざなぎ景気が続いたが、昭和46年以降、減
反政策とドル・ショックがあり、ふたたび不況が続いた
この頃には早川にも後輩が出来て、歓迎会や忘年会に後輩達を居酒屋に誘う
こともあった。もっと飲みたいがお金が続かない。その時は決まってみんなで歌を
歌って解散したものである。
「別れることはつらいけど、仕方がないんだ、きみのため、別れに星影のワルツ
をうたおう・・・・・・」と千昌夫の星影のワルツを歌ったり、
「君の行く道は果てしなく遠い、だのになぜ歯をくいしばり、君はいくのか、そんな
にしてまで・・・・・・」と昔流行ったテレビドラマ「若者たち」の主題歌を歌った。
昭和48年、第一次石油ショックが始まると、物価も上昇したが給料も倍々ゲー
ム感覚で上がっていった。それで気をよくした先輩が初めて早川をバーに連れて
行ってくれたのである。
カンツォーネが好きなその先輩が行くのはピアノが置いてあるバーで、ピアノ弾
きが来るのを待って歌詞集を見ながらカンツォーネを歌っていた。他の客は演歌
やポピュラーなどを歌っていた。
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ピアノで歌うためマイクもなく、ピアノ弾きは客のキーやスピードに合わせてピ
アノを合わせてくれるため、歌いやすく聞きやすく、聞いている客もバックグランドミ
ュージックとして聞いていた。古き良き時代であった。
それから間もなく出てきたのが、8トラックのカラオケであった。
8トラックは2トラックのステレオチャンネルが4つあるため8トラックと呼ばれて
いた。もともとは車のカセットとして開発され、巻き戻しが不要なので今でも一部
の路線バスの案内に使われている。
その後、8トラックによるステレオ伴奏テープとマイクつきのカラオケ再生装置が
開発され、レンタルされると、巻き戻しをしなくてもよいという取り扱いの簡便さが
受けて、全国のスナック・バーに瞬く間に普及していった。
店の経営者はピアノ弾きを雇うまでもなく、従業員や客が簡単に操作出来、料
金も客にしては少し高いが1曲100円くらいで、レンタル料の採算が取れた。
オーケストラがいない歌唱(カラオケ)がここから始まった。
早川はカラオケが普及してもこの時代までは良かったと考えている。好きな人が
自分のお金で歌い、他人に強要しなかったからである。
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ところが「映像カラオケ」と「オートチェンジャー(リモコン選曲)」の出現でカラオケ
の世界が一変した。
昭和57年にパイオニアがレーザーディスク(LD)カラオケを、翌58年には日本
ビクターがVHDカラオケを開発した。また、翌59年には第一興商とソニーがCDチ
ェンジャー(リモコン選曲)を開発し、LD・VHD陣営もこれを取り入れたから、映像
カラオケの需要が一気に爆発した。
「それまで、カラオケといえばテープの曲に合わせ歌詞カードを見ながら歌うのが
普通だった。それが映像カラオケの登場で、画面に背景画像や歌詞のテロップを
見て歌えるようになったのである(カラオケ事業協会ブログ:カラオケ歴史年表解
説)」
この結果、全国のほとんどのスナック・バーに映像カラオケが設置され、新たな
顧客を創出する事となった。社用族も個人も映像カラオケを求めて繁華街を頻繁
に訪れるようになるのである。
早川の会社でも、ゴルフとあいまってカラオケが接待の必須項目になっていく。
カラオケで接待する場合は、お客に数多く歌わせ、「上手ですね」と拍手し感嘆して
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いればそれで用が済むからストレスはない。
困るのは内輪のカラオケである。
カラオケ大好きの役員や上司の中にはひどい悪声で音痴もいる。それが次から
次へと大声を上げて歌うのである。
(聞いているも月給のうちだから仕方ないが、他の客には聞かせられない。会社
の名前が知れたら会社の信用に係わる)
早川は気が気でなくてだんだん酔いが覚めてくる。しかし、当人は若いママさん
に、「社長さん、いつ聞いてもうっとり・・・・・・ほれぼれするわ」と、身を寄せられると、
「そうか、そうか、それじゃあもう1曲歌うか?」
と鼻の下を伸ばしてふたたび歌い始める。そして何曲も歌い、結局は午前様にな
ってしまうのである。
(時間は遅くなるが社長はまだ良い。歌わせておけば機嫌が良いから・・・・・・しか
し専務の場合は「お前、歌え!」と命令されるからたまらない)
専務は歌わないと怒るのである。早川は専務に命令されると、とてもしらふでは
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