「そろそろ、カラオケでも始めますか?」
ほほがほんのり紅くなった玉置副会長が事務局の山田分会長に声をかける。
「そうしますか?」
山田分会長が酔った半開きの眼でマイクのありかを探す。
(まさか?)
気持ちよく日本酒の杯を干していた早川が思わずむせる。早川としては不意をつ
かれた気持ちである。
不覚だった。早川がこの店に入った時から、いや、打ち合わせの場所がカラオケ
屋と決まった時から、この事態を予想すべきだった。
(今となってはもう遅いか?) 早川の酔いが急速に覚めてくる。
「高木さん、1曲どう?」
カラオケが好きそうな玉置副会長が対面に座っている高木氏に歌うよう勧める。
「私はいいです。お好きな方どうぞ」
高木氏はそっけない。どうやら高木氏はカラオケが好きではないようだ。
「先田さん、どう?」
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玉置副会長は1人飛んで先田氏に向かう。
「どうぞ、皆さんでやってください。私は結構ですから・・・・・・」
先田氏は勤め人だったようだからカラオケを歌う機会もあったはずだが、町内会
では歌っていない様子である。断り方も上手である。
(今度は俺か?)
早川がそう思った時、案の定お誘いが回ってきた。
「新人の早川さん、どうですか?」
(ここで1度歌うと、町内会にいる間は今後も歌わなければならない)
早川はそう考え、断る事にした。
「あいにくと不調法で・・・・・・」
「あーら、歌が上手そうよ」
酔った玉置副会長はしつこく食い下がる。
早川もサラリーマンだったからカラオケを歌う機会は多かった。子供のころから歌
は好きでなかった早川はサラリーのため、長い間嫌々歌ってきた事になる。
(歌いたい人が歌えばいいんだ、歌いたくない人にまで勧めないでくれ)
これが、早川の本音だった。
086
「笑わないでくださいね、私がサラリーマン時代一番嫌いだったのはゴルフとカラ
オケでした。どちらも超へたくそでしたから・・・・・・」
「ははは・・・・・・」 みんなが笑う。
「それで会社を辞めた時、どちらも止める事にしたのです」
「そんな事言わずに、聞かせてよ」
玉置副会長は狙った獲物を逃がさない。早川は覚悟を決める。
(町内会役員になり手がいないのを逆手に取るしかない)
「どうしてもと言うなら、分会長を辞めさせていただきます」
「ははは・・・・」
という笑い声と同時に場が一瞬にしてしらける。
「分かった、分かった。無理強いする事ないよ」
いつも優柔不断の坂本総務部長が助け舟(?)を出す。
「ありがとうございました。お騒がせしました、それでは私はこれで失礼します。後は
みなさんでゆっくり歌ってください。ご馳走様でした」
早川が腰を上げる。
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「俺も失礼するか」
「俺も・・・・・・」
先田氏と高木氏が早川に続いて席を立つ。
「ハヤちゃん、助かったよ。俺も酒は嫌いではないがカラオケは好きではないんだ。
カラオケが始まったら何時までたっても帰れないからね」
階段を下りる早川に先田氏が後ろから声をかける。
「俺も帰りたかったんだ、好きな人はいつまでも勝手にやればいいのさ」
高木氏も相槌を打つ。
「おやすみ」
早川は2人と別れ家に向かう。
そのうちに意外な事が起こった。
「別れることはつらいけど・・・・・・」
と星影のワルツがふと口について出たのである。
(昔はカラオケなんてなかったのに・・・・・・)
早川はすでに終わったサラリーマン人生を振り返っていた。
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