配達員は一覧表に物置と書いて車に戻る。
「ご苦労様」
早川は残りの一束を受け取り配達員を見送る。
(そうか、毎月初めに市の広報が来るんだったか?これを11班ある各班長に世
帯員数分数えて渡し配ってもらうのか?しかし分会長の就任は4月29日の定期総
会後と言っていたのに、配送業者のリストにはすでに俺の名前が登録されている、
手回しが良いもんだ)
早川はようやく加藤さんの引継ぎを思い出す。
(ところで、各班に何部ずつ配るんだったけ?班長さんの名前は?班長さんの家
はどこだったっけ?)
つぎつぎに疑問が沸いてくる。早川は引継ぎを受けたはずなのにどの封筒にそ
の書類が入っているのか、まったく思い出せないでいた。
昨日の3月31日は親会社3人の後輩達が用意してくれた送別会だった。
1人は3年後輩の建築資材部長の高橋正幸君、1人は5年後輩で今でも結婚せ
ず福利厚生課副課長として君臨している大木瞳女史、もう1人は7年後輩で食品
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課長をしている晴山賢一君である。いずれも親会社時代同じ部署で仕事をしていた
親しい仲間達である。
早川は午前中に再就職先の子会社の退職辞令を受け取り、親会社の関係者や
取引先へ挨拶をして回った。その後は、本屋やレコード店で時間を潰し、午後6時
に指定された狸小路の8丁目にあるクウネルへ向った。
クウネルは数年前に開店したフランスの田舎料理を出す店で、美味しくて料金も
手ごろで若い女性に人気があると言う。紅一点の大木女史が食い物に五月蝿い早
川のためにブログで見つけた。剥製店の隣に位置するその店の間口は狭く、店に入
るとうなぎの寝床のように細長い。
「いらっしゃい」
早川に気づいたのか店の奥からウェイトレスの声がかかる。
細い通路の右手にはヨーロッパ調のクラッシックなテーブルが縦に三つ並んでお
り、一番奥が厨房となっている。厨房では30歳後半と思われるシェフが黙々と料
理を出す準備をしていた。3人は厨房の前の半円形のテーブルに座っていた。
早川の顔を見ると、
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「お嬢さんビールを!」
高橋君がシェフの奥様らしきウエイトレスに声をかける。早速各自のコップにビー
ルが注がれる。
「早川先輩、3年間ご苦労様でした、乾杯!」 高橋君の音頭で宴が始まる。
「乾杯!」
みんな美味そうに冷えたビールを口にする。
高橋君はいわゆる団塊の世代で今年の誕生日に北斗トレーディングの定年退職
を迎えるが、高橋は早川の後釜として明日から子会社の北斗アウトソーイングに出
向する事になっていた。
「みなさん、本日はありがとう。高橋君こそ長い間ご苦労さん」
早川は逆に高橋君の慰労をする。
「ところで高橋君、今日は北斗トレーディングの送別会はなかったのかね?」
早川の問いに、
「毎日続いてましたが今日はこちらがあるので助かりました。送別会は今日みた
いに気の置けない仲間の集まりが一番ですよ」
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と高橋君が笑う。
「本当、私にも何よりも嬉しい送別会さ」
早川は礼を言う。
「前菜の赤ピーマンのムースです」
ウエイトレスが赤いソースの上に黄色いうりざね形のムースを盛ったお皿をそれ
ぞれの前に置く。
「きれい、これが赤ピーマンのムース?」
大木女史が驚きスプーンで口に運ぶ。
「ほんと赤ピーマンの香りがするわ」
彼女はその形と色の美しさとともにまろやかな味にびっくりする。
「これは初めの経験だ、美味しい」
食品部勤務の晴海君も目を丸くする。
それから一同は赤ワインを注文し、砂肝マリネ、クネル(タラとスズキのすりみ焼
き)、牛バラのステーキなど珍しいフランスの田舎料理に舌鼓を打つ。みんなの口
が軽くなってくる。
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