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小説「眠れない猫」

ベトナム四十八景

デジカメ あしたのジョー

薄くなった。そして5年後には胃がんになったのである。
  幸い勤務先の病院の定期健康診断で早期に発見されたから、すぐにその病院で手術
をして胃がんは治った。ところが、リンパ腺を通じてがん細胞が少しずつ回っていたと見
え、それから5年後に今度は肺がんになった。しかし、その頃は年も年だと手術を控え放
射線治療を続けた。
  放射線治療の後遺症か、藤夫は日を追うごとに痩せ、眼は窪んで、黄疸で顔も黄色く
なっていった。それでも藤夫は一言も愚痴を言わなかった。その時すでに勤めていた修
三が見舞いに行っても、苦しい息をしながら悲しげな顔をしているだけだった。
  その藤夫は、入院中のある日の午後、車椅子で病院を散歩中急に咳き込み痰が気管
に詰まり急逝した。
 (親父はこれで毎日苦しまずにすむ・・・・・・良かったな)
  勤め先で訃報を聞いた修三はそう思った。
  続いて長男の金夫と次男の鉄夫が間隔はあいていたが胃がんに罹り、胃を切除し
た。どれも発見が早く大事には至らなかった。
 (北山家の男どもはみな気が弱く、不思議な事に次々と胃がんになった。残りの男は俺
だけだ、今度は俺の番かもしれない?)
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  3人の胃がんの手術に立会い、摘出した患部をそれぞれ見た修三は自分の番がいつ
来るのか不安に駆られた。
  修三はこれらの事があったからではないが、人間ドックはしばらく受けていない。
 「何も慌てて病気を見つけて、苦しまなくとも・・・・・・手遅れと言われたほうが苦しむ時
間が短くて良いのでは・・・・・・」
  気の小さい修三は、何かのがんが見つかったと聞いただけで肉体より精神が先に
参ってしまう、と思うのである。

  平成15(2005)年の7月13日、脳溢血と舌がんで長い間治療を続けていた次男の鉄
夫が死んだ。
  鉄夫は、修三より16歳年上の兄である。両親が新しい職を求めてはるばる秋田から
北海道の鴻之舞鉱山に移り住んだのは昭和14(1939)年の事だった。13歳の兄金夫
と11歳の鉄夫は8歳の三根子と5歳の相子の手を引いて鴻之舞にやって来た。
  鉄夫は鴻之舞中学校を優秀な成績で卒業したが、進学しようにも子だくさんの家庭経
済が許さなかった。やむなく札幌へ出て仕事をしながら、今の札幌南高校の定時制に
通った。その後、鉄夫は北大付属看護学校に入り、付属病院で臨時雇いをしながら学ん
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でいたが、過労と栄養不足から結核に罹り付属病院で治療を続けた。

  この頃、修三は札幌の教員研修に出張する兄金夫に連れられ、結核療養をしている
鉄夫を見舞いに行った記憶がある。昭和27(1952)年、小学校2年の夏休みだった。兄
金夫が研修に行っている間、修三は鉄夫の病院に置いておかれた。修三は初めて見る
都会の病院の内外を興味深く見て歩いた。
  修三が時々鉄夫の病室に戻ると、そこに小柄で聡明そうな可愛い看護婦さんか来て
いた。この看護婦の雅子さんは鉄夫の北大付属看護学校の同期生で、どうやら2人は
憎からず思っていたようだ。当然の事ながら将来この2人が結婚するとは幼い修三には
想像もつかなかった。
  鴻之舞までの帰りは、兄の研修がまだ続いていたから、兄の同僚の若い女の先生、
佐々木先生の手に委ねられた。引率の佐々木先生は遠軽が実家で、鴻之舞までのバ
スに乗せてもらったら別れる事になっていた。
  修三は帰りに、鉄夫の同級生の雅子さんから、当時高価で田舎ではめったに手に入
らないバナナを一房お土産に貰った。網走行きの列車は8時間もかかりようやく遠軽に
着いた。棚の上のバナナの風呂敷包みを見ると、真夏であり、バナナが傷んで汁が染
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み出て、あたり中匂っていた。修三は(このバナナの傷み具合では後1時間以上かかる
鴻之舞まで持たない)と思った。
 「先生、どうもありがとう、これ匂いますが食べてください」
  修三はバナナの風呂敷包みを佐々木先生に差し出した。帰りの道中お世話になり、
子供心に(お礼をしたいが上げる物が何も無い)と思ったのかもしれない。
 「いいえ、どういたしまして、本当にこれ貰っていいの?」
  佐々木先生はそう言いながらもさっさと受け取った。
  1時間後、修三は鴻之舞の自宅に到着し、この事を三つ年上の姉利子に話すと、
 「たった1時間でしょ、先生なんかに上げずに何で持ってこないの?私たちのお土産で
しょ?」
  利子は口をとんがらせて怒った。修三は返す言葉も無かった。姉利子にすまないと
思った。「食い物の恨みは恐ろしい」この出来事は2人が大人になっても何かの拍子に
ふと出てくる。
  修三は後々思った。佐々木先生はどうして「鴻之舞までもうすぐだから、みんなに持っ
て帰ったら?」と一言言ってくれなかったのか?
  甘い物がまだ潤沢でない当時の事だから(若い女の先生も食べたかったのかもしれな
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い)と思った。

  結核も治癒し、北大付属看護学校を卒業した鉄夫は、系列の天啓会病院を紹介さ
れ、血液や尿を検査する衛生検査科に配属された。
  鉄夫の父藤夫が昭和34(1959)年に鴻之舞鉱山を早期退職し、一家で次男鉄夫の
住む札幌へ身を寄せると決めた時、鉄夫は北区に二世帯住宅を建てた。将来は路面電
車が新琴似まで伸びると見た鉄夫は昭和32年にすでにその土地を手に入れていた。
  土地は100坪あったものの建物は二世帯住宅とは言え名ばかりで、実態は28坪の
小さな一軒家であった。鉄夫はこの時三〇代前半、鉄夫の借金と親父のすずめの涙
ほどの退職金ではこれが精一杯の大きさだった。1階に鉄夫夫婦と両親、2階に次女
相子と四女利子が住んだ。
  この時先に札幌に出て養護教員養成所を卒業した三女の澄子は紋別中学校の先生
となり紋別に移り住んだ。末っ子の修三は中学3年から高校を終えるまでこの澄子に世
話になった。4年後の昭和38(1963)年に札幌の大学に入った修三は両親達と同居し
た。
  後に鉄夫雅子夫妻にも2人の子供が出来たから、大姑小姑を抱え、嫁の雅子の苦労
は並大抵のものでなかった。しかし、雅子はあまり人の言う事を気にしない、持ち前の明
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るさと聡明さで何とか乗り切った。
  子供の頃から丈夫ではなかった鉄夫は看護学校時代結核を患い、在職中は若い時
の苦労がたたったのか糖尿、胃がん、頚椎炎に罹り、退職後は退職後で脳溢血、骨折、
腸閉塞、舌がんと次から次へと病気になった。それでも勤め先の天啓会病院の配慮で
同病院で治療させてもらい、定年まで首にならずに勤めさせてもらった。最後の職は衛
生検査部長であった。
  一人息子と一人娘をそれぞれ大学に行かせ、就職・結婚もさせ、それぞれ孫も生まれ
ていた。鉄夫はようやく父親の役目を果たし肩の荷を下ろした。そのせいか定年近くにな
ると勤め先からの帰りがだんだん遅くなってきた。
  どうやら医者や医薬問屋の営業マンと病院で麻雀をやっているらしい。麻雀をしなが
ら飲む酒の量も徐々に増えてきていた。休日にも昼間から飲むようになって来た。弟の
修三から見ても心配になった。定年後に朝から飲まれても困ると、
 「定年になったら誰も釣りに誘ってくれないよ、自分で運転して行かなきゃ、早く運転免
許を取りなさい」
  と、40歳になって運転免許を取得した修三は鉄夫に運転免許を取るように勧めた。
 (少なくとも運転をする用事がある時は酒を飲まなくなる)
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第10話 明日はわが身 その3 ★★★




































































































































































































































 
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