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小説「眠れない猫」

ベトナム四十八景

デジカメ あしたのジョー
  その魚もほとんどがイカ、ホッケ、さんまなどの大衆魚だった。鴻之舞鉱山は紋別漁
港に近く、これらの魚の漁の最盛期には家庭でも木箱単位で買い求めていたから、1
週間は同じ魚を塩焼き、煮物、すり身などにして食べていた。
  残りは越冬の漬物用で、イカなら塩辛・酢漬け・粕漬け、ホッケやさんまは塩漬け・糠
漬けにして保存した。
  冬には吹雪で時々交通が途絶えたから、これら魚の漬物と室に保存した野菜を組み
合わせた食事が何日も続いた。
  イカの塩辛も毎日続くと飽きてくる。その時にはストーブの上で焼いたり、熱いお湯を
かけて食べたりもした。

  小学校も高学年になると弁当を持っていくようになった。
  弁当も鉱山にいるため白米こそ普通だったが、おかずは梅干、海苔、納豆、鱒の塩
引き、ホッケやさんまの塩漬け・糠漬けだった。これらが日替わりするのである。
  冬になると弁当を温めるため、石炭ストーブの周りに朝から弁当を積んでいたから、
昼近くになるとこれらのおかずの匂いが教室中に充満した。
  今考えると貧しい食生活だったが、周りの人達がみんなそうだったから疑問に思っ
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た事はない。
  修三の家では鶏を10羽ほど飼っていたから、玉子焼きも時々あって、まあまあ良い
方であった。
  鉱山会社の職員を除き同級生のほとんどが労働者の子弟で、生活程度も同等で貧
富の差がなく、弁当の中身も似たり寄ったりで隠すような事はなかった。
  ところがクラスの中で1人だけ弁当箱のふたを立てて人から見られないように食べて
いる生徒がいた。
  友達の話では父親が韓国人、母親が日本人だと言う。
  弁当に何が入っていたのか?麦飯だったのか?キムチが入っていたのか?修三に
は未だに分からない。
  だからと言って誰もいじめた記憶はない。しかし、彼は狭い鉱山社会の中で目立た
ぬようひっそりと生きていた事は事実だった。その彼は人一倍の努力家で公立高校に
進学し、後年近郊の市の公務員になった。

  昭和20年代後半、世の中は戦後を引きずりまだ混沌としていた。
  食料は不足し、世の中は学校給食どころではない時代だった。
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  ところが鴻之舞鉱山は旧財閥系の会社で、占領軍の配給物資が優先されたのか、
小学校時代から汁物であったが、給食らしき物があった。
  それはミルクと味噌汁で、これらが一日おきに出た。修三には給食代を持っていっ
た記憶がない。
  サッカリンが入った甘い脱脂粉乳のミルクはどんぶり大のアルマイト椀に配られ、甘
味に飢えていた子供らはみんな一気に飲み込んだ。
  また味噌汁には配給物資の小麦粉を使ったのか何故かうどんが入っており、さらに
は缶詰の鯖の味噌煮が入っていた。
  これらはお腹をすかした子供達には何よりのご馳走だった。
  修三はこの学校給食の缶詰の鯖の味噌煮が餌付けとなり、大きくなっても魚の缶詰
は良く食べたし、後の貧乏グルメの食材へとつながっていった。

  修三は鴻之舞鉱山のような山の中に住んでいたせいで、未知の文化に対する憧れ
は人並み以上に強かった。
  したがって学校の図書館に通ってあらゆる本を読み漁った。毎月図書館に並ぶ「少
年」「少年倶楽部」「冒険王」などの月刊誌は都会の最新ニュースが満載で、わくわくし
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て読んだ。 
  また公民館のレコードコンサートにも積極的に参加した。鉱山にない文化や物に対
する好奇心は人一倍強かった。食べ物もその一つであった。
  札幌へ勉強に出て行った次男の鉄夫は年に1回鴻之舞へ帰省していたが、そのお
土産が待ち遠しかった。
  餡がたっぷり入った壷屋の最中はとても美味しかった。またMJBの粗引きコーヒー
缶は貴重な嗜好品で、湯飲み茶碗に少しずつ入れて砂糖を加えて飲んだ。もちろん
当時の家では当然の事ながらフィルターはない。しかし、それはアメリカの香がした。

  小学校5年の時、長男の金夫に連れられて、次男の鉄夫の病気見舞いに初めて札
幌の大都会を訪れたが、今になって思い出す景色は札幌駅と北大病院と路面電車し
かない。
  むしろ強烈に思い出すのは次男の恋人雅子にご馳走になった、駅前のパーラー西
村のポーク・チャップである。それは大きな皿に分厚い豚肉と芋サラダ、トマトがのり、
肉半分に甘酸っぱいリンゴソースがかかっていた。
  これにコンソメスープと皿にもったご飯がついていた。そしてそれらの両脇にフォーク
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とナイフが並んでいた。初めてフォークとナイフを使う幼い修三は雅子の所作を真似て
上手に肉を切って食べた。 
  アメリカ映画の家庭生活の一シーンのような出来事だった。生まれて初めて経験し
た洋食は今でも鮮明に思い出す。

  修三はもともと料理に興味があった。
  末っ子で、すり鉢で胡麻をすったりホッケのすり身を作ったりするなど、母親の料理
をよく手伝わされていたせいもあり、美味しい物を自分で作ってみたいという潜在的な
欲望がどこかにあった。
  5年前に再就職して仕事もそれほど忙しくなくなり、気持ちの余裕が出来、ふとやっ
て見る気になった。最初に作ったのは、若い頃会社の近くのレストランで食べた「ポー
クビーンズ」である。
  それ程難しくはない。豚肉のソティを煮豆と共に辛味のあるトマトスープで煮込んだ
懐かしの料理である。修三の世代では白黒の西部劇映画で見かけた料理、若い世代
には学校給食でお馴染みの料理である。
  幸い妻の須賀子の評判も良く、近間に住んでいる娘らにも届ける事にした。
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  その時デジカメを買ったばかりで、記念に写真を写したが、なかなか美味しそうに撮
れた。
  そこでハガキに写真とポークビーンズの思い出を綴り印刷し、料理日記bPとして料
理と共に娘達に配達した。
  娘達は予期せぬ父親の料理に感動し、「美味しかった」と電話をよこした。この一言
で料理に自信を持ち、その後気が向いた休日には料理を作り、ハガキ大の料理日記を
パソコンに残してきた。
  その主な物をあげると、ビーフシチュー、ブイヤベース、パエリア、スープカレー、ふ
かひれのスープ、サムゲタンなどである。
  スープカレーは今でこそブームとなっているが、修三はインドでカレーを食した経験
を元に、3年前から作っている。
  修三の料理は、最初はビーフシチューなど過去に自分が食べて美味しかった料理
の再現だったが、仕事で外国旅行をした経験もあり、その後イタリア料理、中華料理、
フランス料理などレパートリーを少しずつ広げていった。
  韓流ブームにより韓国料理もテレビで取り上げられるようになり、見よう見まねで韓
国料理も何品か作れるようになった。
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第7話 男の料理 その2 ★★










          






































































































       

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