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ベトナム四十八景

デジカメ あしたのジョー

 「くれるんなら良いですよ、『飾って置いてくれ』ですから・・・・・・」
  散髪を終え料金を払おうとしている修三に、近所の行きつけの床屋のご主人菅井さん
が店の入口の棚に置いてある胡蝶蘭の鉢を指差す。 
  黄色い花びらに茶色の細かい斑点が入った胡蝶蘭が七輪ほど鮮やかに咲いている。
どうやら店の常連で胡蝶蘭を栽培しているおじいちゃんが置いて行った物らしい。
 「枯らしてしまったら、どうするんですかね?私は責任持てませんよ」
  常々、修三から胡蝶蘭の栽培の難しさを聞いている責任感の強いご主人は憤懣やる
かたない様子である。
  平成18年(2006)年4月9日日曜日、天気予報では今日から気温が上がるはずだ
が、北海道は相変わらず寒い。午後、修三は1ヵ月ぶりに床屋に来ていた。
  菅井理容店は修三の家から歩いて10分ほどの距離にある。お店は夫婦2人でやって
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いるが、ご主人は昭和15年生まれで山登りをしているせいか若々しく見える。
  最初に行った時、お客さんに媚へつらわず、物をはっきり言うご主人の性格が修三の
気に入った。それ以来、修三は20年近くの付き合いになる。
  修三はここ数年、妻が育てた胡蝶蘭をデジカメで写し、パソコンでハガキ大の12枚
物のカレンダーを作っていた。
  昨年最後の散髪の時、今年のカレンダーを菅井さんに上げたが、店に花の鉢をいくつ
も置いている花の好きな菅井夫婦はとても喜んで、正面の鏡のヨコに飾ってくれている。
 (鉢を持ち込んだおじいちゃんは鏡の横のカレンダーを見て刺激されたのではないか?
カメラを持たないそのおじいさんは、「俺の胡蝶蘭だってこんなにきれいだ」と実物をみん
なに見せたかったのかもしれない)
  修三はそう思って店を出た。

  修三の家の胡蝶蘭も今が花盛りである。70鉢ある胡蝶蘭のうち40鉢以上が毎年次
から次へと花を咲かせる。。
  妻の胡蝶蘭の栽培がここまで来るには15年もかかっている。
  その頃、修三は苫小牧支店に単身赴任していた。上の娘は結婚していたが、孫をつく
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る気配も無い。須賀子は退屈紛れに胡蝶蘭を育て始めたのかもしれない。
  最初は贈り物に貰った胡蝶蘭を育てる事から始まった。
 (このまま枯らしてしまってはもったいない、何とかもう一度咲かせてあげたい、何か良
い方法はないものか?)
  そう思い、須賀子が本屋に行って見ると、丁度「贈り物の蘭の育て方」という本が見つ
かった。

  しかし、その通りやって見ても、内地府県と北海道では気温が違い、翌年になかなか
咲いてくれない。そのため、須賀子はNHKや地元の新聞社が主催する「蘭の栽培入
門」講座を見つけ、次々に通った。
  丁度全国で蘭の栽培ブームが始まった頃で、修三と須賀子は、蘭の栽培で有名な赤
平市や早来町の第3セクター、恵庭町や札幌市清田区の民間業者など、耳にした所は
必ず行って見た。須賀子は東京ドームの「世界らん博」にも出かけて行った。珍しい色や
形の胡蝶蘭を買い求めるとともに栽培方法を聞いて歩いた。
  そのなかで素人の質問に嫌がりもせず親切に答えてくれたのは、清田区で胡蝶蘭を
栽培している前河さんであった。
  前河さんはゴルファーの宮里藍に似た沖縄出身の女性で、乳飲料メーカーが現在地
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で蘭栽培に乗り出した時、技術者として札幌に招聘された。バブルが崩壊し、乳飲料メ
ーカーが蘭栽培から撤退した時、その温室を買い取りオーナーになった女性である。

 前河さんは須賀子の幼稚な質問にもやさしく答え、個人ではなかなか入手出来ない業
務用の資材や肥料・農薬なども分けてくれた。須賀子がここまで花を咲かす事が出来た
のは前河さんの教えに負うところが大きい。

  平成13年春、この年はいつになくたくさんの鉢が花芽をつけていた。
  和室の六畳間が胡蝶蘭の花で埋まった4月のある土曜日、妻の須賀子が二日酔い
の修三に話しかける。
 「あんた、このきれいな花、何とか写して残しておきたいなあ、新しいカメラ買おうか?」
  家族の誰もが写真を撮られる事を嫌う北山家では古いアナログのバカチョンカメラしか
なかった。
 「そうだねぇ、どうせ買うならデジカメにしようか?デジカメなら年賀状もパソコンでかん
たんに作れるし、海外旅行も今やデジカメの時代だよ」
  その頃、デジカメはまだ走りの頃で、海外旅行に行って写した映像をその場で現地の
人に見せると大騒ぎになった時代である。
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  せっかちな2人は早速郊外の大型電器店へと向った。デザインにうるさい修三は当時
売れに売れていたソニーのコンパクトデジカメを買った。ところが、せっかく写しても自宅
にはパソコンがなかった。かくしてその1週間後にパソコンを買う破目となった。修三がデ
ジカメとパソコンを使いこなせるようになったのは胡蝶蘭のお陰だと言って良い。

  修三夫婦はこれまで2人で旅行に行った事がなかった。
  若くしてばたばた結婚した2人は新婚旅行にも行っていなかった。結婚式の翌日、紋
別から比較的近い温根湯温泉に一泊しただけであった。
  結婚からしばらくの間は、須賀子は子育てに明け暮れたし、母娘の関係とは言え同居
していた母登志子への気遣いもあった。子育てが終ったと思ったら、母登志子が病気に
かかりその看病に追われた。
  母登志子が亡くなって数年後、修三は苫小牧支店へ転勤した。
  平成4(1992)年11月、勤続25年を迎えた修三はこれを機会に初めて夫婦2人だけ
の旅行に出かける事にした。北九州(別府温泉・熊本・長崎)四泊五日の旅行である。
  修三は25年遅れの新婚旅行に思い切ってお金をかけた。ホテルや旅客も一流のとこ
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を選び、乗り物も大分から長崎までハイヤーを奮発した。結納金も僅かで、結婚後も金
銭の苦労をかけた妻に対する修三のせめてもの罪滅ぼしであった。
  妻の須賀子はそれまで飛行機に乗った事がなかったから、喜びも一入であった。当然
の事ながら、海を渡り本州へ行くのも高校の修学旅行以来であった。
  その日は天気も良く、羽田行きの飛行機は下界が広く見下ろせた。
 「あれが、苫小牧・・・・・・青森・・・・・銚子・・・・・・・」
  飛行機の窓際に座った須賀子は
 「機内誌の日本地図と同じだ」とおおはしゃぎである。
  須賀子は別府温泉で、夕食の座卓に豪華な料理がところ狭しと並ぶと、
 「子供達にもこんなご馳走を食べさせたいな」と言い、
  長崎のホテルで、天井の高い大きな部屋に泊まると、
 「何だか広すぎて落ち着かないな」
  と言いながらも、この旅行にすごく満足している様子だった。
  須賀子はこれ以来旅行が病みつきとなり、友達や姉達と国内旅行へ出かけるように
なった。食事の支度も、掃除も、洗濯もしなくて良い、旅行の没日常性に魅了されたの
かもしれない。
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第3話 テレサ・テンの墓  その1 ★
































           

         

























































































































































































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