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小説「眠れない猫」

ベトナム四十八景

デジカメ あしたのジョー

沢山で、この時、修三の上には兄が2人、姉が4人いた。
  修三は中学3年生の春までここで過ごしたが、あまり良い思い出がなかった。
  鴻之舞鉱山は山と山の谷間にあり、その底をモベツ川が流れオホーツクの海に注い
でいた。
  この川に沿って上流の方から泉町から栄町まで2.5kmの町並みがあった。谷間の
底の幅は狭く住宅はせいぜい2列並ぶのがやっとだった。
  山と山に挟まれた鉱山は自然の驚異に晒された。
  冬になると最低気温がマイナス25度にもなり、鉱山から支給される石炭を炊いても炊
いても寒かった。
  木造の社宅は室内がうすいベニヤ張りで、現在のように断熱材が入っていたわけでも
なく、常にすき間風が入っていた。
  朝起きると室内の水はもちろん掛け布団の襟布までもが吐く息で凍っていた。
  また、年に数回は猛吹雪があり、これが数日間にわたり続き、平屋の社宅は屋根ま
ですっぽりと雪に覆われた。 朝起きると家の中は真っ暗であった。
  小中学校の休校はもちろんの事、紋別や遠軽との交通が途絶える事がしばしばあっ
た。
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  そんな時は1日中シュウシュウと風が絶えず、ガラス窓がガタガタなり続ける。修三は
夜になっても目が冴えてなかなか寝付かれなかった。
 
  山火事もあった。
  末広町の八軒長屋に住んでいた時であった。川を挟んだ目の前の山がどんどん燃え
ていった。
  鉱山の消防もなす術もなく、拡大を阻止するため遠く離れた木々を切り倒し、防火線を
造り延焼を防ぐのがやっとだった。
  山は何時間も燃え続けた。 燃える物が燃えつくした後も、鉱山の谷間一帯霧のよう
に煙が漂い、息を吸うのも目を開けているのもやっとだった。
  川原では何軒もの家族が家屋への類焼を恐れ、貴重品と布団を砂の中に埋めてい
た。
  夜になって暗くなっても木々の根元がぽーっと赤く輝き、黒い山の斜面一帯に巨大な
線香の束を突き刺したようであった。
  何かあの世の一部を見ているようで、修三はなかなか寝付かれなかった。
  鉱山の記録ではこの山火事は昭和22(1947)年5月21日に発生している。 この時
修三は3歳だったはずだが、今でもその光景を鮮明に思い出す。
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   また雪崩れもあった。
  昭和25(1950)年、雪解けが始まる春3月21日の朝、鉱山に雪崩れが起こった。
  その頃修三一家は栄町の一角、2戸続きの社宅に住んでいた。社宅は2列に並んで
いて、修三一家はその山側に住んでいたが、その隣の隣の家が雪崩れに遭ったので
ある。
  その日は給料日で出かけるところだったのか、母親と小学校の入学を控えた少女が
雪に埋もれた玄関の屋根の下で発見された。山に面した部屋でミシンをかけていた老婆
は死んだ。
  会社の方では大事を取って被災者の周辺の家族を前の列の空き家に避難させた。北
山家も当然移された。みんなはその家に2晩も泊まっただろうか、修三は子供心に「また
雪崩れが来たらどうしよう」と恐ろしくて眠れなかった。
 その後夏になり、雪崩れのあった周辺の家族は旭町の社宅に移転された。そこは山
から比較的離れた町であった。
 
  山に囲まれた鉱山に育った修三は自然の猛威の前に人間の無力を感じ、自然の怖さ
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に敏感になり、次第に臆病になっていった。
  自然だけではない、人間社会にもあまり良い思い出がなかった。

  戦時中一時閉鎖していた鉱山も、終戦を機会に再び採鉱し始めた。鉱山も活気付き、
お盆にめがけて開催される、年に一度のお祭りは大騒ぎであった。
  家々の玄関の軒にはお祭りの花飾りが挿され、道々には幟(のぼり)がはためいた。
  会社の福利厚生で、道には子供御輿が繰り出し、中学校の校庭では野球大会、神社
では相撲大会、武道館では剣道大会と柔道大会が開催された。
  2,500人収容出来る大劇場「恩栄館」では映画「青い山脈」や「白雪姫」が上映され
た。
  夜にはお祭り期間中、小学校の校庭で盆踊り大会が開かれ、太鼓の音とともに「北海
盆歌」や「ソーラン節」の歌声が谷間の夜空に響いた。
  最終日には仮装盆踊り大会となり、最後に花火が打ち上げられた。鉱山中の誰もが
浮かれていた。
  鴻之舞神社の境内や沿道には、ツブ焼き、綿飴、玩具、棒引き、などの露天が連なっ
た。
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  軍帽をかぶり白装束をまとった片足の無い傷痍軍人が、包帯を巻いた松葉杖を両脇
にかかえ、自分がいかに国のために戦い、その結果このような姿になったと、講談師の
ようにめんめんと語っていた。足元には決まってそら豆の形をしたアルマイトの賽銭皿
が置かれていた。
  修三は彼らの姿を見るのが嫌だった。
  修三の父藤夫は丙種合格とかで兵役に行っていない。
  友達は兵隊の真似をしたり、その父親は軍隊の経験談をとうとうと語った。その度に
修三は肩身が狭い思いをした。
  幼心に「父は何故戦争に行ってくれなかったのか?」と思った。無事で帰って来れた
か分からないのに・・・・・・
 
  幼心に傷ついた事はまだある。修三は今で言う「恥かきっ子」である。
  藤夫、トメそれぞれ39歳の時の子供だった。小学校の入学式で会った同級生の母親
達はみな若かった。修三は友達の若い母親が羨ましかった。
  もちろん修三の母親は入学式に着ていく着物などあるわけがなく欠席した。修三は姉
達に手を引かれ入学式へ行った。
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  後年、就職して間もなく後輩に団塊の世代が入ってきた。その中の一人が「俺達、溜
め子さ」と言っても、修三はその意味が分からなかった。
  修三は彼らから復員してきた父親が溜まっていた物を吐き出して出来た子供が「溜め
子」だと解説された。
  彼らは一様に自嘲気味に話したが、彼らは修三ほどその事を気にしていなかった。み
んな明るかった。
  その逞しさが日本の戦後の高度成長を支えたと言える。平成19(2007)年からその
団塊の世代約700万人がいっせいに定年退職を迎える。

  仮装盆踊り大会にも苦い思い出がある。小学3年の時である。
  仮装盆踊り大会には、傷痍軍人、マドロスさん、赤穂浪士、相撲取り、野球選手、赤
鬼青鬼、などの様々な扮装をした踊り手が参加した。
  踊り手は景気をつけるためか、はたまた羞恥心を消すためか、ほとんどの人が酒を
飲んで酔っ払いながら踊っている。浴衣姿の観客はやんややんやの大喝采である。
 中でも、女装でストリッパーに扮した太目の中年男にみんなの視線が注がれた。裸の
上半身に黒いお椀のブラジャー、下半身に黒いスキャンテーをはいたこの男の異様な
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第2話 銀色の道 その3 ★★★





































































































































































































































  

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