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・・」と。
  鴻之舞鉱山には若い頃の苦い思い出しかなかった。一生訪れる気はなかった。
  修三の決心を揺るがしたのは妻の帰郷である。
  昨年、妻の須賀子が自分の故郷、湧別町を訪れたのである。北見の実父のお見舞い
がてら、故郷の湧別町を訪れ、子供の頃独りで遊んでいた学校、神社、港に行って来た
のだ。遠軽に近くなって、ようやく昔の自分の姿を覗いて見る気になったのかもしれな
い。
  この事も修三の決心を変えた要因となった。

 「時間が早いから鴻之舞へでも行って来るか?」 
  修三は鴻之舞へ行った事のない須賀子の同意を得て山道へと入って行った。まさに
34年振りの帰郷である。
  すぐに金八峠に差し掛かる。峠道は山肌を削って作ったぎりぎりの幅である。標識の
ない埃だらけの砂利道を進む。急なカーブが続く、修三は対向車に注意しゆっくりと進む。
  約30分も走った頃、少しずつ視界が開け、川に沿った穏やかな下りの坂道に入る。こ
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れまで対向車は1台だけだった。
 ようやく舗装道路になる。走る車が少ないせいか、舗装したばかりなのか、ラインがくっ
きりと見える。道の両側は背丈の高い草また草が山まで続いている。
 鴻之舞鉱山は大正4(1915)年に発見され、大正6(1917)年に住友の所有となった
国内有数の金山だった。
 昭和46(1971)年までの総産出量は、金6,428kg、銀95万2,103kgで、一つの
鉱山としては国内最大の鉱山だった。昭和17(1942)年の最盛期には人口1万3,00
0人を数えた。
  その鉱山も採算が年々悪化し、昭和48(1973)年に閉山し、今では廃墟となってい
る。
  社外の人が多く住んでいた金竜町であろうか?間もなく道路を跨ぐ小さな橋が見え
る。橋の上には巾と深さが1mほどの大きな樋がかかっている。鉱道から流れる鉱水を
沈殿地まで運んでいる樋である。
  そのうち所々登り藤の群生が見えて来る。元鉱山従業員がそれぞれ残していったもの
である、 
 「この辺から家並みがあったはずだが・・・・・・」
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  修三は独り言を呟きながらゆっくりと車を走らせる。神社の跡も学校の跡も住宅の跡も
まったく見当たらない。
  道の両脇に昔の町名を書いた小さな標識があるだけである。
  鉱山の中心部らしきところに差しかかると右手に広場がある。どうやら修三が通った
之舞小学校にの跡地らしい。
  広場に車を寄せて見回すと、木立の中に小さな公園があり石碑が三つ立っている。
  一つは鴻之舞金山慰霊碑、もう一つが鴻之舞金山跡碑である。
  もう一つが鴻紋軌道記念
碑であった。
 (鴻紋軌道の実際の起点は鉱業所や事務所があったもう少し下流の末広町だった。修
三は終点である旧紋別駅前の鴻紋軌道記念碑をまだ見ていない) 

  鴻紋軌道記念碑の下に「銀色の道誕生の碑(2003年7月)」と刻まれている。
  2年前、関係者に募金を呼びかけ、ようやく建立された石碑である。
  普段この手の募金にはあまり参加しない修三も、子供の時のぽんぽこ列車を思い出
し、思わず1万円寄付した。しかし、発起人会から収支報告書も建立式の案内も何もな
かった。
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  鴻紋軌道は昭和15(1940)年に着工し、昭和18(1943)年に完成した。

  鉄道建設には、作曲家宮川泰の父親が技術者として関わっており、宮川泰も少年時
代を鴻之舞鉱山で過ごした。
  しかし、太平洋戦争勃発により鴻紋軌道は軍部から「金より鉄が大事だ」とレールが
撤収されてしまった。
  この宮川少年の深い悲しみが、後年「銀色の道」という作品に結実した。
 「銀色の道」は、戦争という雨に当って泣きぬれる、鴻紋軌道の姿を歌ったものである。
  ちなみに鴻紋軌道は昭和23(1948)年鉱山再開により復活したが、これにバスやト
ラックが取って代わり昭和24(1949)年に廃止された。

  遠い遠いはるかな道は
  冬の嵐が吹いているが
  谷間の春は花が咲いている
  ひとりひとり今日もひとり
  銀色のはるかな道
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 (作詞 塚田茂、作曲 宮川泰)

  ふと、修三の頭の中に、ザ・ピーナッツの歌声が響いた。
 
  2人はさらに紋別方面へ車を走らせたが、末広町には「ぽんぽこ列車が走った鉄道が
道路を跨いでいるだけで、他に記憶にあるものは何もない、
  最後の町、雪崩れがあった栄町と思しきあたりでUターンした。
  帰りは遠軽へ抜ける道道137号線を選択したが、峠はなく全線舗装で、車はあっとい
う間に遠軽に到着した。

 北山修三の父藤夫は、以前、秋田の男鹿の港町に住み、そこで渡し船と潜りを営む叔
父の仕事の手伝いをしていた。
  しかし、4人の子供を抱え暮らしに困り、先に入山した同郷の人の伝手を頼って来道す
る事にした。
  昭和14(1939)年、藤夫と妻のトメは2人の息子と2人の娘を引き連れて、海を越
え、層雲峡を越えて、鴻之舞鉱山にやって来た。

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  鴻之舞鉱山は国の奨励策もあって、昭和15(1940)年には年間金2,500kg、銀4
万6,200kgという生産量を達成、生産量、規模ともに東洋一の金山として賑わった。
  鴻之舞鉱山は住宅・医療・教育施設・購買所(日用品の販売所)が完備され、文字通
りゆりかごから墓場まで、福利厚生がたいへん充実していた。
  6人とも着の身着のままで荷物らしい物も無かったが、鉱山では労働者にも狭いなが
らも社宅が当たり、電気はもちろん水道は4戸に一つ共同水栓が敷かれていた。無料の
共同浴場もあった。
  食料や日用品の前借りも出来て、入山した家族6人は何とか食いつなぐ事が出来た。
  鴻之舞鉱山は炭鉱と違ってガス爆発は全く無く、落盤事故もほとんど無かった。また、
住友が従業員の採用に細心の注意を払っていたから刺青の荒くれ男も少なく、揉め事も
あまり無かった。

  気の弱い藤夫はそんな社風を気に入っていたのかも知れない。ここで藤夫は低賃金
ながら、うるさい叔父の監督にも会わず、のびのびと暮らしていた。

 修三は藤夫・トメ の末っ子として昭和19(1944)年6月4日に生まれた。貧乏人の子
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第2話 銀色の道 その2 ★★
































           

         




























































































































































































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