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小説「眠れない猫」

ベトナム四十八景

デジカメ あしたのジョー
  それ以来、修三はラジオを聴きながらいつしか眠り、ラジオの声でいつしか目が覚め
る、うつらうつらの毎夜となった。
  結婚以来、修三が眠れぬ時は階下へ行ってお酒を飲んでいると妻の須賀子は知って
いた。須賀子の方は、たまに口論した後でも布団に入ればたちまち熟睡する、拘らな
い、さっぱりとした性格であった。
  枕元で電気をつけて本を読もうが、ラジオを聴こうが、起き出して酒を飲もうが、気にか
けない。そんな須賀子に修三は救われてきたと言える。
  しかし、そんな須賀子も最近は年のせいか、たまに眠れない時もあるようだ。
  その須賀子を見てやれば、修三の隣で掛け布団に顔を半分埋め、すやすやと寝てい
た。かすかにラジオの音が漏れている。
 「スイッチが入ったままだ」
  修三が2年前に買ってやった小型の携帯ラジオのイヤホーンが妻の耳からはずれた
ままであった。 
            
  修三が妻の須賀子と出会ったのは、昭和34(1959)年、中学3年の時である。修三
が紋別中学校へ転校した時の事であつた。
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  修三は中学3年の5月まで、オホーツクの山の中、金銀銅を産出する鴻之舞鉱山で過
ごした。鴻之舞鉱山は、網走管内の紋別と遠軽と丸瀬布を結ぶ三角形のほぼ真ん中に
あり、周囲は山に囲まれていた。
  修三の父藤夫は鴻之舞鉱山で労働者をしていたが、修三が中学3年の時定年前で
あったが退職し、二男鉄夫の住む札幌へ身を寄せる事となった。当然、修三も両親とと
もに札幌へ移住しなければならない。
  だが、修三は札幌の中学へは転校出来ても、その後札幌の公立高校の入試に合格
する自信はなかった。
  丁度この年、三女の姉澄子が札幌の養護教員養成所を卒業し、養護教員として紋別
中学校に就職する事になった。
  修三はこの姉に同居させてもらい、紋別中学校へ転校し、地元の紋別高校を受験す
るしか方法がなかった。
  中学2年の春休み、姉澄子と修三は2人の落ち着き先を探しに紋別市内を奔走した。
  姉澄子が紋別中学校の先生方の勧めで、最初に尋ねた家が坂口須賀子の家であっ
た。
  須賀子の父坂口次夫は湧別町役場に勤めていたが、軽い脳溢血にかかり、中途退
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職を余儀なくされた。
  坂口次夫はその後紋別市内に下宿屋を新築、下宿業を営みながら、リハビリーを続け
ていた。その何組目かの客が澄子、修三姉弟だった。
  その下宿屋の新しい部屋を2人とも気に入ったが、坂口家では後日「同学年の娘がい
るから」との理由で紹介者を通じてやんわりと断ってきた。この時、修三は娘の顔を見て
いない。
  2人は別な間借り先を探すしかなかった。あちこち駆けずり回ったあげく、結局二人は
その下宿屋からそう遠くない、漁船の雇われ船長をしている山川さんの大きな家の一間
を借りる事になった。
  姉から遅れる事50日あまり、5月18日に紋別中学校に転校した修三は3年3組に編
入された。
  上がり症の修三は席に案内されても落ち着かず、クラスの中を見回した。
  すると、窓際の席で腕組みをし外を見ている女生徒がいた。色白で二重の大きな目が
おかっぱ頭の前髪の下で輝いていた。
  しかしよく見ると何故か1人だけズボンをはいていた。
 「変わっている」
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  これが修三の第一印象だった。修三が隣の生徒に聞くと、同じく4月に湧別中学校か
ら転校して来た坂口須賀子だという。
 (坂口?そうするとこの娘があの下宿屋の娘か?ひょっとしたら、今頃この娘と同じ屋
根の下で暮らしていたのかも知れないのだ)
  そう思うと修三の胸がきゅっとうずいた。

  この年の5月20日、新安保条約が自民党単独で採決され、日本国中が騒然としてい
た。転校して1ヶ月も経たない6月15日、全国で安保闘争が起こり、紋別市でも、自治
労,高教組、北教組が中心となり、午後7時から市中デモ行進が行われた。
  修三は担任の先生や姉の澄子や同級生と共に街を練り歩いた。
  修三は新安保条約の意味も分からず、みんなの後をついて歩いたが、お祭りのような
騒ぎに驚いていた。

  その頃、学校では学期末試験の結果を毎回廊下に張り出すのが習慣だった。
  試験の結果はいつも、鴻之舞中学校から来た修三が1番、湧別中学校から来た須賀
子が2番だった。    
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 「またこいつらが1番と2番だ、こいつらどこかおかしいんでないかい?
  地元の生徒達からはやっかみもあって、2人とも邪険に扱われた。
  2人とも口数が少なく会話もなかった。
  この頃はお互いに変わり者同士という程度の認識で、お互いを異性として意識しては
いなかった。
  2人はそろって紋別高校へ進学した。修三は美術クラブで、須賀子はソフトボールクラ
ブで、毎日日が暮れるまでそれぞれの青春を謳歌していた。
  須賀子がスカートをはかずズボンにこだわったのは運動をするためだと、修三はその
時初めて知った。
  国鉄の線路を挟んではいたが近くに住んでいた二人は、花園町から汐見町の高校ま
での登校時、時々一緒になった。
  いつも挨拶程度の会話しかなかったが、修三の目にはセーラー服の須賀子が当時人
気のあった九重祐三子のようにさわやかな女の子に映った。
  こうして高校の3年間はあっと言う間に過ぎたが、2年時の関西への修学旅行や3年
時の学校祭の際には2人が会話する機会も増え、これまで以上に親しくなっていった。
  同級生達は、修学旅行や学校祭などみんなが集まると、よく舟木一夫の「高校三年
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生」を大声で歌った。
  修三は札幌の自宅から高校へ通うべく、紋別高校の2年の夏休みと春休み、札幌北
高校の編入試験を受験した。
  だが、田舎と都会では勉強の進度が違い2度も失敗した。
 「田舎の秀才もこれまで」
  そう言って先生や同級生達からからかわれた。
  父親に似て、臆病で小心な修三は傷つき、自信をなくしていた。そんな時、修三は通
学路で須賀子の屈託のない笑顔に出会う事が出来た、それが修三の唯一の救いだっ
た。
  しかし、そんな須賀子も自分の進路をどうするか、誰にも相談出来ず人知れず悩んで
いた。須賀子は他の同級生達のように都会へ出て建築設計の専門学校へ進学したかっ
た。
  だが一人娘で養女のため母親が手元から放すのを拒んだ。坂口家の収入は下宿業と
着物販売の内職で賄われており、経済的にもそんな余裕がなかった。 
  須賀子は進学したかったが、言いだせなかった。やむなく地元の銀行に就職する事に
した。
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第1話 ラジオ深夜便 その2 ★★










          





































































































       

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